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チカちゃんは年寄りの鑑

 チカちゃんは年寄りの鑑

チカ写真池

 栃木県黒磯の池(チカちゃんが撮影)

今日、栃木の88歳のチカちゃんから集中豪雨を心配して、電話がかかってきた。

チカちゃんと知り合いになったのは、今から17年前、私の入院した病院のベッドが隣だった事が縁で今日まで続いている。

チカちゃんは、賢くて、おしゃれで、気前が良くて、年寄りの鑑のような人だ。

私は、足の靭帯を切って14日入院したが、チカちゃんは首の筋を痛めて3ヶ月入院していた。

私は退院して3週間後に名古屋へ引っ越してきたが、その後もチカちゃんとは年賀状のやり取りをしていた。

引っ越して2年後に、愛知県の親戚に法事があって栃木から親戚の2人と一緒に出てきたので、西浦温泉に私も呼んでくれたので4人で泊まった。

私とチカちゃんは、カラオケが趣味なのでその夜は4人でカラオケ三昧で大いに盛り上がった。

あれから15年間、年に2回くらい電話があったりしたりが、2年前にチカちゃんのご主人が亡くなり、寂しいと言っていたので桜の咲く頃に会いに行く事を約束した。

昨年の4月に、黒磯に桜が咲いるのを確認し、新幹線に乗って那須塩原駅まで行った。

チカちゃん写真

黒磯の池の桜(チカちゃん撮影) 

 

駅までチカちゃんが手押し車を押して迎えに来てくれたが、若々しくておしゃれでとても87歳には見えなかった。

チカちゃんの家の婿殿が、いつも行くと言う温泉宿に車で乗せて行ったくれた。  

  夜、チカちゃんの生い立ちを聞いたが庄屋さんの娘で大事に育てられたと言う。

子供の頃に、村で2台しかなかった自転車の1台が家にあって、4年間洋裁の勉強をさせてもらったそうだ。

 自分の親がしてくれたくらいに、自分の子供にはしてやってないと言うがそうでもない。

一代で製材工場を作り、4人のお子さんに土地を買ってあげているのだからすごいと思う。

 次の朝、婿殿が迎えに来てくれて、黒磯公園に桜を見に行ったが、満開に咲く桜の下をチカちゃんとゆっくり歩いた。

  水仙

次に行ったのが、チカちゃんが散歩に来ると言う公園だったが 、そこには大きな椿の花と水仙が咲き乱れ桜も咲き、冬と春が同時に楽しむ事が出来た 。

そして、チカちゃんの娘さんの家に行って有名な人(名前を忘れた)30枚くらい飾ってある見事な版画を見せてもらった。 

 

 椿

 

  名残惜しむちかちゃんと那須塩原の駅で別れ、新幹線で宇都宮に向かった。

 

黄色バラ  手作り作品コナー 黄色バラ

 

ビーズ巾着2

  

ビーズ巾着

ビーズと刺繍の古布巾着(マチなし)

ビーズと刺繍の巾着(マチ付き)

 

 

 

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猫のミーちゃんの思い出話2

 猫のミーちゃんの思い出話

 

猫が、大嫌いだった飲んだ暮れ亭主が、なんと猫を相手に酒を飲むようになった。

自分の酒のつまみである刺身を、ミーちゃんに取ってあげているではないか!

 ミー後ろ 

ミーちゃんは、足元にじーと座って時折訴えるような目でご主人様を見ているのだった。もう一切れゲット!

お前が人間だったら銀座のママとは言わないけれど、チーママになれるよ。

亭主は、猫を風呂に入れるようにもなった。

汚い、汚いとか言いいながら・・・

ミーちゃんは私と一緒に風呂に入って、風呂のフタの上に乗り私の肉体美を見ているのが好きなんだヨ!?

ミーちゃんは、狩が得意で何かと獲物を取ってきては私にほめて欲しくて見せに来る。

ソファの上に、かえるがあったり、モグラがあったりしてビックリすることもあった。

 

ミー籠

 

一番おかしかった獲物は、お正月が過ぎの事だった。

何か大きな物をゾロゾロ引きずって来たので、近くによって見ると「するめ」だったが、私に見せるとどこかに行ってしまった。 

 ミーちゃんが来て2年がたった頃、私と子供達はおばあちゃんがいる名古屋に引越し、飲んだ暮れ亭主はで仙台に単身赴任した。

  ミー外

 

 

名古屋に引っ越して1ヶ月くらいたった朝、ミーちゃんが泣きながら足を引きずり、体の毛もところどころ抜け落ち、痛々しい姿で帰って来た。

獣医さんの所に連れて行き診察をしてもらったところ、車にはねられ股関節をいためているので、入院する事になった。

その日朝、大学生の長男が車でアルバイトから帰って来る途中、バイク青年に当て逃げされたと言う。

人から聞いた話によると、可愛がっていた猫や犬が身代わりになってなくなる事があると言う。

ミーちゃんが身代わりになって、事故から長男も、バイクの青年も救ってくれたんだと思った。

私はその日、パートの面接がある日で忙しかったが、次の日から働きにいく事になった。

ミーちゃんの事が気になっていたが、忙しくてなかなか入院先に行けなかった。

入院3日目に獣医さんから電話が入り、治らないかもしれないと言う。

今日こそは行こうと思っていても、なれない仕事と家の中の事だけで精一杯だった。

それから入院5日目に、ミーちゃんは天国に旅立った。

私達家族に沢山の思い出を残して。

 

 

 

 

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猫のミーちゃん思い出話

猫のミーちゃん思い出話

 

mi4.gif   

猫のミーちゃん

 

猫のミーちゃんは、宇都宮生まれの女の子。

宇都宮で、大きな家に引っ越してすぐに迷い込んで来た。

私は小学校1年の時、猫をもらって大事に育て、「ぶち」と名付けた雌猫は17年間生きた。

 私は猫がだ~い好き!

飲んだ暮れ亭主は、猫が大嫌い!

迷い猫は、おとなしくて人懐っこく可愛いかった。

亭主は猫を絶対飼うなと言うのだが、猫好きの私と子供達は猫を追い払うなんて、可哀想でできなかった。

猫のミー

   ミーちゃん  

亭主のいない昼間に餌をあげたりしていたが、夜は小屋に入れるようにして内緒で飼っていた。

その内に、猫も家の中に遠慮がちに入ってくるようになり、亭主が出張に行っている間に我が家の一員の座を確保した。

迷い猫の時に、適当にミーちゃんと呼んでいたので、そのまま呼ぶ事にしたが、どんどん可愛くなっていくにつれ、名前が良くないと子供達が言い出した。

「モナリザ、マリー、モンロー、メアリー」と横文字のカッコイイ名前をつけたらよかったと文句を散々言うのだが、当の猫は「ミーちゃん」と覚えてしまったからもう手遅れだった。

ミーちゃんは、狭い所に入るのが大好きで紙袋、洗濯籠、ゴミ箱に入って遊んでいたが、そこでいつの間にか眠ったりもしていた。

私の車の音がすると、玄関できちんと座って待っている。

私も見習わなければ・・・・

私が仕事から帰って来ると、遊んで欲しがるので、かくれんぼをしてあげた。はやく探しに来いとばかりにミーミーと鳴く。

「ミーちゃんどこかな~」

と言いながら探しにいくと紙袋の中に隠れて、しっかり見えていても分からない振りをして探したりするのだ。

次に、鬼ごっこもしなくてはならない。ミーちゃんを追い掛け回し、今度はそーと抜き足でドアのそばに行くとミーちゃんが隠れていて飛び掛ってくる。

この2つが、毎日のパターンの遊びだった。夕方の忙しい時に自分でもよくやるよなと、おかしくなりながらミーちゃんと遊んでいた。

それを見ていた、中学2年の次男が

「僕もミーちゃんくらい、お母さんに子供の頃に遊んで欲しかったよ。」

と言われてしまいました。

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童話「アーちゃんとレーちゃんの幼稚園」

   童話

アーちゃんレーちゃん幼稚園

 

アーちゃんは6歳になり、幼稚園に入園しました。

レーちゃんという女の子の隣になりました。

レーちゃんは、自閉症の病気で自分の事が一人では出来ませ。

アーちゃんは、レーちゃんといつも一緒でした。トイレも一人では出来ないレーちゃんの面倒も見ていました。

遠足もレイちゃんの手をつなぎ、お弁当を食べる時も一緒です。
 リュック 

ある時、先生が

「皆でレーちゃんのお世話をしましょう。」

といってクラスの皆でレーちゃんの、お世話係をする事になりました

最初のうちは皆交代でトイレや、手洗いなどお手伝いをしていたのですが、そのうちにレーちゃんの面倒を誰も見なくなってしまいました。

アーちゃんは、レーちゃんの事が心配でたまりません。

やっぱりレーちゃんをほっとけなくて、アーちゃんはお世話するようになりました。

でも、レーちゃんは自分のしたい事を止められると、アーちゃんの腕に噛み付くようになっていました。

 それでも、アーちゃんは泣きませんでした。水で腕を冷やし、

「痛いの、痛いの飛んでいけー。お空の上まで飛んでいけー」

と何度も空に向かっておまじないを言いました。

ある日の事、いつものようにレーちゃんのお世話をしていた時、レーちゃんはアーちゃんの言う事をちっとも聴いてくれません。

仕方なくあきらめてアーちゃんも、皆と一緒に遊び始めました。

滑り台

すると、一人になって困ったレーちゃんは大きな声で泣き叫び始めました。

すると、皆で

「アーちゃんが悪い、アーちゃんが悪い。」

とはやし立てました。

責任感の強いアーちゃんは、泣きたいのをじーとこらえていましたが、とうとう我慢できなくて泣き出してしまいました。

それを職員室で見ていた5人の先生は、悲しくて悲しくて泣いてしまいました。

先生は、アーちゃんのお母さんに電話をしました。

 泣く子 

「アーちゃんが、幼稚園を明日休みたいと言ったら休ませてあげてください。」

といって電話は切れました。

幼稚園から帰ってきたアーちゃんは、いつもと変わらなく元気でした。

幼稚園での悲しい出来事もお母さんに、話しませんでした。

でも、アーちゃんはやっぱり悲しかったのです。

「お母さんわたし明日、幼稚園を休みたい。」

と言いました。

「あ、そう。じゃあどこかに行こうか?」

とお母さんが、聞くとアーちゃんは

「デパートに行きたいの」

と言いました。

次の日2人はデパートに行って洋服を買ってきました。

アーちゃんは次の日、元気になって幼稚園に行きました。

大玉ころがし

アーちゃんとレーちゃんはいつも一緒です。

運動会の行進も2人は手をつないで歩きます。

大玉ころがしも一緒によいしょ。よいしょ。                                                                                                                                                                                                                                                           

 

運動会

  それ見ていたアーちゃんのお母さんと、お母さんのお友達は

アーちゃんのやさしい姿に、涙が出てしまいました。

 

そして、大人になったアーちゃんは、シンデレラ姫となり王子様とお城で幸せに暮らしました。

おわり

 



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NHKラジオに出た

   NHK ラジオに出た

 

でんわ2   

ある日突然電話が入り、関西で放送されているNHKラジオの「朝のロータリー」という番組が「手作りの店」の取材に来る事になった。

 「手作り」の店は宝塚市が援助し、身体不自由児の父母の会が中心となって障害者の働く場を目的に、福祉の店として宝塚南口の駅前にオープンした。

この店ができるまで、宝塚南口の通路の所で月に1度くらい手作りの物や古本など販売していた。

私はエプロンエを売り、友人は籐の籠とパッチワークの袋物、もう一人の友人はパンフラワーのブローチとイヤリングを作って売っていた。

私はその頃から販売能力にたけていたらしく、隣にいるとよく売れると2人が言うので私が真ん中の場所だった。

体も大きく、声もでかい!

顔は悪いが、愛想よし!

人情に厚くて、お人よし!

お世辞もなければ、嘘もない!

品物良くて、お値打ちだ~い!

車寅次郎

   憧れの君、寅さん

まるで寅さんの口上みたいだが、私のこの販売スタイルは今でも健在なり。

こうしていろんな手作りの人たちが集まり、出来た店だった。

NHKラジオの記者の人から電話が入り、1時間くらいしで着いた。

取材は、私が作っている補聴器帯のこ事を聞かれたり、ミシンで縫っている様子の  録音をしたり1時間ほどで終わった。  289

後日、自分の声を聴くのはチョットこっぱづかしかったが、ラジオを聴いたら3分くらい私のインタビューが流れただけだったが、上手に編集されている事にビックリした。

私を記者に紹介してくれた、友人はお嬢さんが足が不自由でいろんなボランティアをしていたが、強い信念の持ち主でいつも忙しく走り回っていた。彼女いわく

「補聴器帯を、コツコツと縫って地味な仕事をしているあなたを、いつか陽の当たる場所に出してあげたいと思っていたのよ。記者の人が「すごい人だった」て言っていたわよ。」

「すごい」というのは今までに見た事のない「大迫力のおばさん」と言いたかったのだと思う。

「手作りの店」は2年で閉店となってしまったが、転居先の宇都宮に宝塚身体不自由父母の会から感謝状が贈られてきた。

私もいつか、彼女のように人を引き上げて盛り立てて、喜ばしてあげたいと思った。

 

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バッグ1  バッグ2 
古布の絹手提げ 古布の絹手提げ

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私の手作り暦

 私の「手作り」

          ミシン    316

私が手作りを始めたのは、30年程前だった。

最初は、子供服や自分の服を縫い余った布でパッチワークの布団を作った。

長男の七五三用スーツも5歳の時にブレザー、半ズボン、長ズボン、ワイシャツ、ネクタイを作って着せた。

お古を次男に着せて、長男が7歳になったので2着目を作って着せた。既製品のようにうまく出来たので、2着共社宅の人に差し上げた。

千歳飴 

宅に耳の不自由な女の子がいて、西宮の施設に通っていた。

この人の家の中には、まど、つくえ、いす・・・と書いた紙が家中に貼ってあり、子供がこれらの名前を見て覚えられるようにしてあった。

1つの物を覚えた時、本当に嬉しいと言っていたのを今でも覚えている。

 自転車ピンク

社宅のこの親子は自転車の前籠にいっぱい荷物を積み、後ろには子供を乗せて、雨の日も風の日も西宮まで50分もかかる道を自転車をこいで通っていた。

私はその姿を見て、どんなに励まされたか知れなかった。

その人に頼まれて縫ったのがきっかけで、学園の子供達の補聴帯を縫うようになった。補聴器帯はブラジャーのような形で、胸の所に補聴器を入れるポケットが2個ついていていた。

当時市販の物は高価でその上、素材が化繊の為に肌に直接つけると、夏は暑くて肌の弱い幼児は肌荒れなどになって困っていた。

 そこで材料を通気性の良い綿で作る事になり、布は学園側で用意してくれた。

また、学園に通う親の要望を聞いて何度も改良をして使い易くしたが、早く綺麗に縫えるまでに2年かかり1枚300円で4年間縫った。

 この頃手作りが流行になり「手作りの店」も宝塚に出来て、そこで委託販売をしてもらったのが「手作り」の仕事の始まりだった。

私は、布を問屋に買いに行きエプロンだけを縫って販売してもらった。

   エプロン2     

 ある日突然電話が入り、NHKラジオが取材に来るというのでビックリした。   

  

ミニエプロン

   ミニエプロン

 

 

 

 

 

 

ブログに夢中!

   256  256  ブログに夢中!  256

 

 この1ヶ月ブログに夢中になりすぎて、仕事をおろそかになってしまった。 

ブログに夢中になるというよりも、パソコンの操作を忘れてしまうのが怖くて、忘れないように毎日ブログを書いただけ。

一番怖いのは、一晩眠ると翌朝忘れていたりする事。

だから、3時間づつに分けて寝てみたり・・・・

昨日の事は忘れるのに、昔の事をやたらと覚えているから、とうとう私も年寄りの仲間入になってしまったのだろうかな?

オリンピックを見ながら、近所のお店に委託する商品をようやく作り終えた。

「次の、仕事の準備も9月から始めないとイベントに間に合わないヨ!」

広島のスタッフにお尻を叩かれ、まづは仕入れをしようという事になった。

よ~し頑張るぞー

254 254 254   手作り作品コーナー  254 254 254

広島のスタッフのデザイン製作者は私)

 

コサージュ5個

 
    ペンダント新
コサージュ 帯地のペンダント

 

 

 

 

 

 

越中おわら「風の盆」の商品作り

 黄色バラ  越中おわら「風の盆」の商品作り 赤いバラ

 

富山市八尾町に「風の盆」の時期だけ、15年間商品を委託販売させて頂いています。

観光客は年々増えているようですが、色々と様変わりしているとの事。

私の商品も時代と共に、変わってきました。

今年は、和布で巾着を作りました。

  

綿チリピンクぼかし

巾着赤2ぼかし

綿チリ青ぼかし   

  風神ぼかし

歌舞伎赤ぼかし 

 

歌舞伎緑ぼかし

 

 巾着赤ぼかし

巾着紫ぼかし

えんじ巾着ぼかし

 

 

買い物大作戦

 たこ       買い物大作戦   

 

 長女もようやく幼稚園に通うようになって、少し時間に余裕が出てきた。

飲んだ暮れ亭主のは、会社の若い人を年中連れてくるようになり、どんどんエスカレートして我が家は居酒屋時状態となっていった。

皆で食事

土曜日も、会社の若い人4人が午後から飲みに来るというので、十三駅の近くに安い市場があったので電車に40分乗って買いに行く事にした。

 ここの市場は、当時は大阪の黒門市場と同様によく知られていて格安の為、いつも込み合っていて買うのも大変だった。

魚や肉など10キロ程(家に帰ってから計った)買って、駅に着いたが迎えに来ているはずの夫がいなかった。

私はこの日幼稚園のお迎え当番で、娘と7人の園児を迎えに行かなくてはならなかった。

このまま、駅から直接幼稚園に行くつもりでいたのだが、夫が迎えに来ていないので途方にくれた。

この重い荷物を下げて、山の上の幼稚園にいくのは、力持ちの私でも無理だ。

ましてはよその子供を7人も連れて30分の道を歩かなくてはならない。

幼稚園

タクシーなどない田舎の駅だったので夫を待つしかなかったが、幼稚園の迎えの時間は刻々と近づいて来た。

クソー飲んだ暮れ亭主ー!

誰のた為に買い物に行ってると思っていっるんだー!

       

 派出所

   

   

私の怒りも頂点に達した。 

ひらめいた!

ピンチに強いこの私!

駅の近くの交番に行った。私が

「すみません、この荷物おかしてください。」

「いや、困ります。自分らもパトロールに出かけて留守になるので、なくなると困るのでだめです!」

警察 

   

と声を荒げて言ったが、ここしか頼る所のない私は

「大丈夫ですよ。派出所に盗みに入るバカなドロボーはいませんから。       すぐに主人が取りにきますからお願いしま~す。」

迷惑がるおまわりさんを無視して、勝手に荷物を土間の隅に置き一目散で、幼稚園に走った。  

子供達を、無事に家に送り届け家に帰ると入れ違いになった夫が車で戻って来た。

床屋が混んでいて、遅くなったとか・・・・

嫌がる夫を、 

「アンタガ悪いんでしょ!」

車     私の一言でしぶしぶ、派出所に荷物を取りに行った。        

そして大ご馳走で宴会も盛り上がり、夜まで立ちっぱなしで私の足は棒になった。

あの時のおまわりさんに感謝!感謝!

料理 

 

ぱわふるマミーの子育て奮闘記2

  ぱわふるマミーの子育て奮闘記2

        149     宝塚は私の勉強のスタートライン    101  

宝塚は、知的で教育熱心な文化的環境に満ち溢れた町だった。   

長男(小1)次男(4歳)長女(2歳)の冬の事だった。              

歯医者嫌いの3人の子供は、家から1時間くらいかかる小児歯科に連れて行った。次男はこの世の終わりのように、泣き叫び治療にも時間がかかった。

長男は、虫歯の治療をしてもらい、次男は歯にエナメルを塗る予防をした。

(その後3人共、大人になるまで一度も歯医者のお世話にならなかった。) 

 

 

宝塚大劇場  

     宝塚大劇場        

 治療が終わっての帰り道、次男も泣き叫んでよほど疲れたらしくタラタラ歩いて駅に着いた。

そしてようやく駅に着いて阪急電車に乗ろうとした時、次男の靴が脱げて電車とのすき間に落ちてしまった。

電車に乗ってしまいどうしょうと、まごまごしていた時、長男が

「タッチが靴を落した!」

花の道 

     花の道

 と長男が大声で叫んだ。

幸い、1両目に乗っていたので車掌さんに聞こえて、すぐに降りて靴を確認すると、

 「電車が発車したら駅員にとってもらいなさい。」

そしてすぐに電車は発車した。

 

      

阪急電車

    阪急電車

               
 線路に落ちた靴を駅員さんに拾ってもらい、の電車で宝塚の駅に着いたが、乗り換えに時間がなく電車のベルが鳴っていた 。                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

これに乗り遅れたら夕方の寒い駅のホームで、20分待たなければならない 。            

                         

清荒神

    清荒神本堂

私は娘えを抱きかかえ、次男の手を引っ張り必死の思いで階段を登ってった。

その時後ろから大きな足音がしたかと思うと、見知らぬ高校生がさっと次男を抱きかかえて、階段をタッタッターと勢いよく登って行った。

おかげで電車には乗る事が出来て、高校生にお礼を言った。

 

宝塚(阪神)競馬場

   宝塚(阪神)競馬場

今時こんなにはつらつとした高校生がいると思うと、嬉しくてならなかった。

息子達よ、お前も大きくなったらこんな高校生になっておくれ。

 

485485485485485485485485485485485485 手作り作品コナー 485485485485485485485485485485485                   

 

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古布の手提げ

 

古布に刺繍入りの手提げ

 

 

ぱわふるマミーの子育て日記

ぱわふるマミーの子育て奮闘記

  

奥の院  

中山寺奥の院

 

親の意見となすびの花は千に1つの無駄もない! 

 このことわざは、私のは母には当てはまらなかった。

私は「いい子」ではなかったので、家族とは合わなかった。

私の母や姉の考え方は時代遅れの古臭い事ばかり言っていた。ここの家にいて母の言う事を聴いていたら、私の人生がおかしくなってしまうと思い名古屋に就職した。

結婚して、子供が生まれても母は十分な事はしてはくれなかった。もちろん他の4人の姉達もそうであった。

そういう時代だったという人もいるが、結婚して広島に転勤していろんな人に出会ったが、私は恵まれていないと思った。母は精神的な支えにもなってはくれなかった

 中山寺

よく遊びに行った中山寺

      

宝塚に引っ越して、思い知ったのは私の無知な事だった。

私は、ガラッパチの「男女」であり「大人子供」というなんともつかみどころのない中間人間だったが、なぜかエエトコのお嬢様育ちの人とお友達になった。

彼女達は、母親に「しつけ」をされていていろんな事をよく知っていた。

また、賢く生きる知恵や人間を見る視点なども心得ていて快適に生活していた。

親の言う人とお見合い結婚をし、豊かなさが、また豊かさを呼ぶ仕組みを知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宝塚ファミリーランド

 宝塚ファミリーランド

   (2003年閉鎖)         

  

アメリカには、貧乏から3世代にわたっても脱出できない家族が多くいるというが、我が家もこれに入る可能性があると思った。

賢い母が家のすべてのキーポイント

になると思って、飲んだ暮れ亭を一切あてにしないでやっていこうと心に決めた。

愛も変わらず、飲んだ暮れ亭主はマージャンや接待やらで、仕事か遊びかよく知らないが毎日のように夜中に帰って来た。

時々、飲んだ勢いで夜中に人を連れて来て呑み始めつまみを作ったりした。

昼間は子供を遊ばせ、夜は子供が寝静まってから子供服や自分の服、人の洋服も縫い生活費に当てた。

毎晩暗い部屋で洋裁をした為、視力が落ちてしまった。

 長男「お母さん、いつ寝てるの?遊びたくないの?」

「子供の頃たくさん遊んだから、今は遊ばなくてもいいん          だよ。お前はいっぱい遊んできな。」

朝から夜遅くまで働き、すべての戦いが始まった!

ミシン 

長男は、病気になっても医者に行く時は自転車を自分こいて行かなければならなかった。

2人の弟妹がいるので私の自転車には乗れなかった。

夕方の六甲おろしの吹く国道を片道20分かけて、2ツむこうの駅の近くの医者に4人で行った。

自転車

 

 

 

 

 

病気の時も、夫は

「子供が病気くらいで早く帰って来れるか!」

遊ぶ事はしても、子供の事はめんどくさがって面倒は見なかった。

もちろん私が病気になっても何もしてくれず、子供が枕元でタオルで頭を冷やしたりしてくれてた。

子供   風呂も幼稚園児が妹を入れたり、着替えさせたり子供達でやっていた。

子供は3人は年が4歳しか離れてなくて、大変だっがちっちゃな手が私をを助けてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

私の中学生日記

 私の「中学生日記」

恵那峡 

中学の頃遊びに行った恵那峡

私の中学生時代は、運動に明け暮れた。

中学に入学してソフトボールと陸上を初め、家での勉強をほとんどしなかった。テストの時も1週間位適当にやっていただけだったと今になって思う。 

小学校6年生の時に幅跳びで3メートル70cmを跳び、当時としてはすごい事だったらしく先生がカメラを持って来て写しが、

お尻だけが写っていた。

中学1年生の時は練習をしなくても4メートルを飛んでいたので、陸上の市内大会に1週間練習しただけで出場していたが、市内大会ではうまく飛べず3位内に入れなかった。

中学2年生になって、ソフトボールのレギラーになりセンターで6番バッターになった。

夏休みのは中学校で合宿をして、当時の一番大きな大会である県大会まで進んだが1回戦で負けた

陸上も大会前の1週間だけソフトボールの練習の合間に練習をして、市内の大会で高飛び1位、幅跳び3位となった。  

 ソフトボール2

3年生になって陸上も幅跳び、高飛び、400メートルリレー全部が市内で1位だったが次の地区予選で惨敗だった。

先生いわく

「陸上なんて持って生まれた足の速さや。足の遅いやつが練習したって勝てん!」

と言うのが口癖で女子陸上部は無く、足の速い子を集めて大会に臨んだが市内大会では女子は総合1位だった。

この頃から、運動に忙しく家に帰ると胸が痛くなるくらい疲れ、勉強などするどころかか疲れてすぐに寝てしまった。 

説教

教室での勉強はどうかと言えば、またこれがいい加減で先生によく立たされた。

英語の先生に当てられた。

 英語   先生 「おい、これ訳してみろ!」

   「少女は、窓の外を見ている。」

先生  「外ばっか見とるな!たっとれー!」 

先生は、激怒して私は立たされた。

美術の先生にもこっぴどく叱れた。

粘土で置物を作る授業で皆、ざわつききながら粘土をこねていた。当時テレビのバヤリスオレンジのコマーシャルでチンパンジーが手を大きく上下に叩くシーンが人気だった。

「メリーさん、メリーさんあなたは私の太陽だ!」

私は窓の外を身ながらながら、粘土を叩いていた時、

「もう一度、言ってみなさい!」

チンパンジー

頭の上からヒステリックな声がした。

いつの間にか教室は、静まり返って私の声だけが教室中にとどろきわたっていた。

私の席からは、3年生教室が見えて野球部の好きな先輩が見えたので、毎日ボーと見ていたのだった。

また、たたされた!

どんどん成績は落ちたが、運動に夢中で勉強に身が入らない。勉強の大切さなんて考えても見なかった。

かといって運動に対する夢なども無く、その時をただ忙しく生活していたように思う。

私の家は農業をして忙しく、暗くなるまで運動して家の手伝いもしないので、運動部をやめるように母と姉に何度も言われたが続けた。 

しかし父は、大会の翌日私の名前が新聞に載ると、それを近所の人に見せていたという話を父がなくなってから聴いた。

ソフトボール3中学3年生では、ソフトボールのキャプテンになり、ショートで4番になった。

今年のソフトボルーチームは弱いと監督に見放されていた。

私は、強いソフトボールチームの伝統を守る責任を果たす事に一生懸命だった。

私は絶対に県大会まで行くんだと強いチームになるように、チームメイトに激を飛ばしていたが、一人よがりのようになり孤独だった。

家に帰ると、丸太で作ったバットで山に向かって石を数え切れないくらい打った。

ソフトボールは市内大会で優勝して、地区大会に進んだがどこも強豪ばかりだった。

もうこの試合で終わりかも知れないと、1戦ごと必死で戦ったがどんどん勝ち進み決勝まで残る事が出来た。

決勝は、私の暴投とエラーで負けたが県大会には出場する事が出来た。

県大会は、優勝候補の岐阜市内のチームでそれはすごかった。

伝統に乗っ取り1回戦で負けた。

しかし私は、一人で石を打って練習した努力が実って毎試合ホームランを打ち、ここまで来れた事でだけでも満足だった。

今、一番後悔していることは、勉強しなかった事だ。

そして人間として未熟で、消しゴムで消したいような中学生時代だった。

 

 

 

 

 

「NHKのど自慢」の予選に出場

のど自慢

「NHKのど自慢」予選に出場

赤いバラ  

 

 宇都宮でカラオケを習い始め、名古屋に引っ越してからも休みながらも続けていた。

今まで習った先生は5人いたが、皆それぞれ個性があって良い所を吸収できった。

1997年8月9日に父がテレビに出た安城で「NHKのど自慢」がある事を知り応募した。 

応募の動機を書く欄があり、そこに父が出場した事を書いた。(そこが一番重要の所だった)

カラオケお宅の知り合いは書類審査で落ちた。

この時の応募総数は3200通だったが、2年前他でする時に応募したが2400通で書類審査で落ちた。

予選出場の通知は、1週間前に来た。

   ハガキ

予選通知のハガキ

   

289当日歌う「女泣川」の練習をテープが磨り切れるくらい毎日練習をした。 343

着替え室が満員で、着替えができない時の事も想定して、クーラーを切って絞りの浴衣を着る練習もした。  

車     

予選当日朝から暑かったが、駐車場が狭い事を知っていたので9時に車で一人家を出た。

会場の駐車場に10時頃着いたが、さすがに車は数台だけだった。 

11時ごろになると会館の周りに人が集まって来て、開くのを待っていた。

 カード   

何人かの出場する人と話をした後、私のカメラで記念写真を撮っ     てあげた。

地元の老人クラブの人たちが20人くらい階段の所に座っていたので、写真を撮り会長の所に後日送った。 

13時から予選が始まり、私の順番は250人中の49番目だった。

 

明日の本番と同じセットがあり、客席から順にステージの上に上がって行き、20人分用意してある椅子に座って待った。審査員は、ステージの前のほかにも会場の客席のあちらこちらにいた。  

私は、有松絞りの紺の浴衣に下駄を履き、髪には夜なべして作った絞りのコサージュを付け、ドキドキしながら順番を待った 。

いよいよ私の番が来た。

 

楽譜

  
アジサイ 

生バンドでたった40秒しか歌えない中(1小節くらい)でアジサイの造花に絞りのハンカチをかぶせ(それも花に見える)歌いながらパッと取るとアジサイが飛び出した。

会場から大きな拍手が沸いた!

さっきの20人の老人クラブの人達だった。

歌っている途中「ありがとうございました。」のテープが流れ終わりになった。

  

テレホンカード    

 参加賞のテレホンカード 

                      

ステージを降りて行くと、宮川アウンサーが声を掛けてくれた。 

「絞りのいい浴衣ですね。」

私はお礼を言って客席に着いたが、宮川アナウンサーは歌い終わって降りてきた一人づつに声を掛けていた。

全員が歌い終わり、審査発表が あったのは夜6時を過ぎていた。

もちろん落ちた!

私の熱い夏はこうして終わった!

img057.jpg  

 「NHKのど自慢」のモットー

父「NHKのど自慢」に出場

 343343343343343 父「NHKのど自慢に出場  343343343343343

 

 昭和47年父が愛知県安城市で開催された「NHKのど自慢」に出場した。

父はそれまでにも、予選を突破して2回テレビに出たが、鐘1つで終わった。

母や姉は歌が上手でないのに、父がおかしな身振りや手振りをして歌っているのが恥ずかしくて嫌でたまらなかったらしい。

しかし父は父なりに、作戦を考え出場する事に執念を燃やしていた。

当時の出場申し込みは800人位で、今の3分の1~4分の1だったがそれでも競争率は高い。

今では考えられない事だが、岐阜県から愛知県安城市での書類審査が通り予選に出る事になった。

安城市民会館  

      安城市民会館

予選で合格して次の日「NHKのど自慢」のテレビにる出場する事になった。

私は「つわり」がひどくて、誠実でやさしかった夫(新婚の頃)とテレビの生中継を見た。

  264  「18番、郡上八幡田植え唄」  343

父がマイクの前で言った。   343         343

安城市民会館ッホール

安城市民会館サルビアホール

エー・・・ちょと、ちょっとそんな歌ほんとにあるの?伴奏も無く、へんな顔をして一生懸命歌っている姿がおかしいやら、恥ずかしいやら。やれやれ。

もちろん鐘1つだった。

今から思えば、カラオケも無いラジオの頃から「NHKのど自慢」に出場していたのだからすごい!

父は、建てまいの後の宴会やお祭りなどの寄り合いがあるたびに歌っていたが、人から「歌が好きな兵四郎さん」と呼ばれてはいたが

「歌が上手な兵四郎さん」と聴いた事は無かった!

父が77歳でなくなった時、時間がたつにつれ父ともっと沢山話をすればよかったと思い、歌の好きだった父の後を継いで歌を習いに行き始めた。

そして父が、どうして歌が好きだったかを知りたかった。

カラオケをはじめてから10年後(1997年)、安城市で「NHKのど自慢」が開催される事になり私は書類審査に受かった。

 

 

昭和の「おしん」物語

昭和の「おしん」物語

合

資本金なしで稼げるビジネス紹介 ・・・小学生も高収入

初めて仕事をしたのは、小学5年生位の時である。

春になると田んぼにはタニシがいっぱいいた。昔はよその田んぼに入って子供がタニシわ取っていても誰も何も言わなかった。

この辺の家ではタニシを食べないので、私はそれをバケツいっぱい取った。

かえる 

 また、 家の近くの山にはワラビいっぱい生えていて、夕暮れまで夢中で採り、リュックサックと籠いっぱい詰め込み家に戻った。

私だけの秘密のお山 ワラビ山はお宝山

農家は、野菜があるのでワラビなど取りに行く人は少なく、ましてや当時ワラビを売る事は誰もしなかった。

 

鳥の巣
 汽車

これらの物を4時ごろ母と一緒に卸売り市場まで持っていったが、母は小さな身体に籠いっぱいの野菜を背負い、ゴトゴトの山道を駅まで30分歩き、そこから汽車に乗って次の駅に行った。

私は、ワラビとタニシを手に提げて母の後ろをついていったが、タニシは重くて大変だったので、取るのをやめる事にした。

帰りには「あんまき」を食べて、ハギレ屋に寄り布を買って帰って来るのが楽しみでよくついて行った。

 元手なしに稼げる、子供にこんないい仕事はない。

6月になると田植えのシーズンになり、近所の2歳位の女子を預かって子守をした。

その子供が大きくなると、また他の女の子を子守して洋服を買ってもらったが、それを修学旅行に着ていった。

近所のおばさんが忙しくしている正月前に、障子の張替えもやってあげたら小遣いをくれた。下手だっただろうにあれはおばさんの優しさだったのだと、今になって思う。

親戚の「お蚕」の世話の手伝いもやったが、その家には女の子がいなかったのでとても可愛がってもらい、近所だったが泊まって来た。5女の私はそれが嬉しくてよく手伝いに行った。

 昭和37年頃の私の昭和の「おしん」話である。

 

鮎

 

 

ぱわふるマミー不景気と戦う

レジスター

ぱわふるマミー不景気戦う

ブログに夢中になっていて、3週間仕事を休んでしまった。

次のイベントの予定が無いので、仕事に意欲がわかない!

それにこの不景気では、あっても無くてもいい手芸品など売れない!

仕方なく安く値段を付けると、手間賃と材料費が出ない! 

かといって、在庫を減らすためにはコツコツ作らざるを得ない!  

ショルダー藍色

売れる商品と、作りたい商品は違う。

自分の好きな物だけ作って売れなくても満足している人もいる。

私は、消費者が何を求めてているかを、リサーチして売れる商品を作る。今は欲しい物がすぐに変わり昔よりもスピードが速い。

あるミュージシャンは、確実にヒットする曲と自分が好きで作る曲を、交互に作っているという話を友人から聴いた事がある。

生活をかけて家族を養い、この仕事に携わっている人の事も考えなければならないとなれば、なおさら真剣勝負だ。

 私など人から「生活をかけてやっているわけじゃないんだから、そうも頑張らなくていいじゃない。とよく言われる。

   藍更紗のショルダーバッグ

 

ショルダーバラ大島

バラの花付きショルダーバッグ

確かにそうだが趣味程度にやっていて売れる程、世の中そうも甘くない。

私は仕事を必死になってやる気力がなくなったら、やめようと思っている。

そして私のお口さんに元気がなくなったら・・・

 

手提げ黄色

       絹古布の手提げ

 

 

ちょんまげおじさん出没する

ちょんまげおじさん出没する

 

5月中旬から1週間名古屋市内のデパートで「パッチワーク展」が開催され、出店させてもらう事が出来た。久しぶりのデパートでの出店に口はすこっぶる元気だったが、体力的な部分に不安があったものの、友人や娘に助けられて無事終わった。

後、2日でこの催事も終わろうとしていた夕方5じ時頃、「早乙女太一」がき来たというのだが私は気が付かなかった。ミーハーおばさんとしては残念でならなかった。

しかし、6時ごろすごいおじさんが来た。最初見た時、御園座に出ている役者かと思ったくらいだ。

頭はちょんまげを結い、派手な服の上に桃太郎が着るようなちゃんちゃんこをはおり、首からはネックレス3本たらし、腕にはブレスレット3本巻き付けていた。手には女物のハンドバックを持ち、顔は真っ黒に日焼けしている60歳くらいのおじさんが私の売り場に来た。

ちょうど売り場も暇な時間帯で出店している人も、物めずらしさで集まって来た。

おじさんは、おばさん達に囲まれみんなの注目を浴びチョーご機嫌!

せっしゃは  16代目織田信長の子孫 なり

ちゃんちゃんこと、女物のバックにも織田の家紋を入れて自分の城とかの、写真まで持ち歩いて見せてくれた。

おじさんノリノリになってきて、

「今の若いもんは車に金をかけてこういう(ご自慢のちゃんちゃんこ)いいもんに金をかけんからアカン」

というのです。私が

「お車は何に乗っておられますか?」      

と訪ねると

せっしゃはジャガーじゃ」

というのです

       

  

 

 

 ジャガー

           イギリス車 ジャガー  

               (1690万円)

おじさんは、ちゃんちゃんこを留める物を買いに来たが、私の所は無いので他の売り場に案内した。

「あ~らマミーのご主人」

と出店している知人に言われてしまった。

「一緒に歩きたくない男ナンバーワン」に選ばれそうなこのおっさんを言うに事欠いてそれは無いでしょ!私の顔が引きつっていたとか・・・

「宅の主人はね、床の間に飾って置きたいほどのいい男ヨー」

と叫んでいた。(本当は呑んだ暮れ亭主だけど)

「だって、あのおじさんと一緒にいてもぜんぜん違和感無いんだもーん」

この話のバトルに周りのみんな大爆笑。

おじさんは、売り場の奥の方に行こうとするので、そちらには無い事を言ったのに、サッサと行ってしまった。(注目されたかったのだろう)

皆、口々に好き勝手な事を言っていた。 

「あの日焼けはお百姓をして焼けたんじゃないの?」

「車は、ジャガーという名前のトラクターに乗ってんだよ。」

「ご機嫌で着ていたけど、安っぽいちゃんちゃんこだったね」

 トラクター 

                                                愛車のジャガー

 愛しき罪なきおじさん!

 

赤いバラ   手作り作品コーナー 黄色バラ

  ビーズバッグ3個

縮緬の古布のバックと銘仙の丸い巾着

北海道・居酒屋探し旅Ⅲ

北海道・居酒屋探し旅Ⅲ

siretoko.jpg     

知床

網走、知床、ワッカ原生花園に行く

旅も残り3日となり亭主は、旅好きというわけでもなく、趣味は酒を飲む事!それにエネルギーを費やし、まさに命を掛けているとしかいい様子がない。

花黄色ぼかし 

網走に着いた日は、レンタカーを借りて網走周辺の観光地に行った。ワッカ原生花園についたときは夕方の4時ごろだったのでゆっくりする時間はなかった。しかも例年なら咲いている花々が、おそい霜にやられてしまって遠くの方に少し咲いているだけだという。

カーリングで有名になった常呂町をレンタカーで網走に帰る途中、エゾシカの親子が畑の中を走って行くのを見た。北海道に来ている実感がした。                          お土産に買ったカーリングの小物入れ63

カーリングぼかし  

2人とも旅に飽きてしまっていた。飲んだ暮れ亭主は網走にホテルをとったが繁華街はまったく無く、あまりの田舎にがっかりしていた。    (網走刑務所には800人服役しているという)   網走で買った錠前63           

                                                                                                   

錠前 

 オシンコシンの滝    オシンコシンの滝

 

夜は、残念ながら街まで遠く(行った所で何も無さそう)夕食はホテルで食べる事にした。品数は多いいが、これと言った特徴も無くまあ普通だった。もちろん1時間くらい掛けて呑んだ暮れ亭主は飲んでいるので、先に部屋に戻って来てしまった。

次の日は、知床に行くバスツァーに載ったが、6人くらいしか乗っていなかった。網走からいろいろな所に寄り道しながら2時間くらいかかって知床に着いた。

一番印象に残ったのは、16キロも続くまっすぐな道の両側にはジャガイモ畑と麦畑が広がっていた。寒い大地で開墾した先陣のご苦労はいかなるものだったかと想った。ここに来て初めて北海道に来たという実感がわいた。まさに

北海道はでっかいどー

もうひとつすごいなと思った事があった。

バスガイドさんは40歳を過ぎたくらいの人であったが「天職」と言っても過言で無いくらいガイドが上手だった。

プロとしての器量をきちっと持っておられ、旅人を楽しませる事が出来る人だった。

この人は会社の宝だと思う。いつまでも頑張って!とエールを送りたい。

次の日、名古屋セントラル空港に戻ってきたが、居酒屋探しのくたびれ喧嘩旅だった。

お金さえ出せば、北海道まで行かなくってもどこでもおいしい物は食べられますってー

北海道・居酒屋探しの旅Ⅱ

     北海道・居酒屋探しの旅Ⅱ

小樽    

小樽運河   

呑んだ暮れ亭主体調不良!

ホテルに着くなり、呑んだ暮れ亭主がベッド気分が悪いから胃薬を買ってきてほしいといい、青白い顔をしてベッドに、横たわった。(今から思えば、これが大動脈瘤のサインだった。)

夜の10時を回っていたが、フロントで1薬局を聞き私は10分くらいの歩いて買って来た。

翌朝、さすがに大食家の亭主も食欲が無く、身体の調子はよく無さそうだった。

車

    

 

レンタカーを借りて、立待岬、五稜郭、大沼国定公園、などへ行ったが、夜になるにつれて呑んだ暮れ亭主の体調は良くなってきた?!

また居酒屋に行こうと探し始めたが、昨日のようないい感じの店はなかなか見つからなかった。同じような所をぐるぐる歩き回り、疲れたのであきらめて適当な店に入ったが、まあ懲りずによくも飲めるものだと、あきれてしまった。

呑んだ暮れ亭主の復活である!

44次の日は、飛行機で札幌に行った44

時計台ぼかし   

   札幌時計台

               

 

               

札幌の駅に着いた時、雨が降り出していた。北海道庁旧庁舎を見た後、またしても雨の中歩いて札幌時計台まで行った。よほど歩くのが好きらしい。

私は、足が悪いのだ!                    雨の日は余計につらいのだ!                    すぐそことか、すぐに言うけどあんたのそこは当てにならない!

こも都心にある全日空ホテルだったが、スィートが安く泊まれるというので、何を思ったのか亭主はそれに決めたのだった。

夜になって、呑んだ暮れ亭主はまた居酒屋を探し始めた。雨がしとしと降って足元が悪いのにアチコチ歩き回わった。タクシーに乗ってススキのでもどこでも一人で行けばいいものを・・・

私は、腹が立つやら疲れるやらで、弁当を自分の分だけコンビで買ってさっさと食べて、ふてくされて寝た。喧嘩した時、広い部屋はいいね~

朝、朝食を駅に行く途中で食べ、札幌発から「小樽のバスツアー」で小樽に行った。20人くらいの観光客が乗ったが、席が空いていたので亭主とは離れて座った。

お決まりどうりの、パンフレットで見たことのあるコースだった。観光の為に作られた町がそこにあった。

昼もテレビで見た事のある観光客が行く店に連れて行かれたが、おいしくはなかった。もちろん大食家のうまいもん好きの亭主は、ブーブー言ってうるさい事。

札幌に夕方5時ごろ着いたが、またいつもの居酒屋探しが始まった。ホテルの近くにいい感じの店があり、おいしそうな酒のつまみがあった。

具合が悪くなった事などすっかり忘れているかの如く、呑むわ食べるわ、昨日の分まで食べるつもりみたいだ。

人は  生きるために食べるが

呑んだ暮れ亭主は  食べるために生きている。                                                    

 

 

 

北海道へ居酒屋探し旅

    北海道・居酒屋探し旅     かに

2年前北海道に定年旅行で1週間行った

 会社から定年旅行の費用が出るというので、北海道に行く事にした。

呑んだくれ亭主と行けば、呑む事しか頭に無い事が最初から分かっていたので、一緒にどこへも行きたくなかった。伸び伸びにしていたら定年まで、7ヶ月ほどしかなくなってしまって、どこかに行かなくてはと云う事になった。。

海外旅行は1度も行った事が無かったが、呑んだくれ亭主は外国の食べ物で酒を呑むのが嫌なのだ。

結局、おいしいものがたくさんある北海道に7月末に行く事にしたが、どうせ呑む事を優先するだろうと思い、私は呑んだ暮れ亭主に旅行のすべてをに任せた。

初日は函館の観光だった。もちろん宿は飲み屋が沢山ありそうな繁華街に近い、シティーホテルだ。

昼近くに函館に着いたので、テレビに出てくるお決まりの駅近くの市場の中にある食堂で「いくらどんぶり」を食べたがまずかった。観光客相手の所なんてこんなものさ!

チンチン電車に乗って、函館山に行ったが電車を降りてから坂道を登るのは足の悪い私には大変だった。しかもバッグの中には最低限ではあるがカメラ、お茶、化粧ポーチ、携帯電話、・・が入っていて徐々に重さを感じるようになってきた。 

思いやりゼロ人間の呑んだ暮れ亭主は、知らん振りしてサッサと前を歩いて行く。

時間の短縮にもなるし、タクシーに乗って来れば良かったと私は後悔した。まあこの亭主と来ればこんなもんさ!

      函館八幡坂

函館八幡坂

 

 

函館山の夜景は「100万ドルの夜景」とかいう話だが、そんなものは若いラブラブの人の話だわ。  今夜は函館の花火大会ばあり、レストランは予約でいっぱいだった。

函館山をテクテク降りて、金森赤レンガ倉庫4時ごろ着いた。

赤レンガ倉庫の中はお店がいっぱいあったが、どこにもある商品が並んでいて欲しくなるような物は何も無かったので買わなかった。            

    函館レンガ倉庫郡

赤レンガ倉庫郡 

花火丸

 

   

         

函館駅まで疲れた身体でまた、トボトボ歩いた。JR函館駅         の近くの海岸に着いたが花火大会を見る人が集まってきていた。

私は船の上から花火を見たいと言ったのだが、あんな所じゃうまい物か食えないから嫌だという。

ホテルに帰る途中、なかなか感じのいい店があったので入った。

安くて美味しい物ががいっぱいあった。呑んだ暮れ亭主の目が輝き山のように注文した。そして、急ピッチで焼酎を呑みまくりチョーご機嫌!

 

たこ 焼酎

 散々呑んで、ホテルに着きテレビをつけると函館の花火大会で漫才師が少女にいたづらしたというニュースが流れた。

そしてその夜、呑んだ暮れ亭主の身体に異変が起こった!

 

2度目の広島転勤

2度目の広島転勤  

広島  

   (広島駅前のデパートから写しました)          

2000年2度目の広島への転勤が決まった。

ちょうどこの頃、私も広島での仕事が多くなっていたので、好都合だったが、夫には単身赴任をしてもらい、姑と高校、大学に通う子供たちと5人で建てて間の無い家に残った。

でに、広島で「パッチワーク展」の仕事していた私は、多くの知り合いも出来て、とてもよくしてもらっていた。つらい時代を過ごした広島だったが次第にその時の悲しさが薄れていった。     

広島で初めて、「パッチワーク展」のワークショップで出店をした時の事です。

身震いするほどの、素晴らしいパッチワークの作品を見ました。

大きな作品ではなかったのですが、今まで見たことの無い色使い、口では説明できないけれど、この作品に見入りました。

   出会い        

私は、どんな人が作られたのか知りたくなりました。

           想い出 (感動した作品)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その人は、8月6日に被爆されケロイドの治療渡米した時、お世話になったお宅でキルトに出会ったというのです

それから数年後、広島のデパートで催事がありその時、「出逢い」というパッチワークのタペストリーをお借りして、チラシと案内のハガキに採用されました。催事期間中はタペストリーは入り口に展示され、多くの方に見ていただく事が出来ました。

後日、お礼のお品と「今までの人生の中で一番嬉しかった」とのとお手紙が届きました。しかし、もっと嬉しい事がおきたのです。 

    えっ子の本

 「えっこ15歳のとき・8月6日

ヒロシマ」      

  8月6日広島    

     8月6日・ヒロシマ

 

    「えっこ15歳のとき、8月6日・ヒロシマ

この本が平成16年に出版されましたが、原爆が投下された時に被爆された壮絶な様子が書かれています。また、素晴らしいキルト作品も載っています。

平成18年、広島中国テレビでこの人のドキメンタリー番組が中国地方で放映されました。

平和への願いを強くキルトで表現したいと、1針1針に思いを込めて作られた作品です。

  64原爆が落ちたときの燃え上がる炎イメージした作品

ここ暫くお目にはかかっていませんが、想像を絶するような、苦しみ悲しみを乗り越えて、「凛」とて生きて居られる姿にいつも感銘していました。

 

 

 

 

 

       

 

広島からはじまった

  

トラック

初めての転勤は広島 

 

昭和49年12月私が24歳夫28歳、長男2歳の誕生日の頃広島に転勤になった。お腹には5月に生まれる次男がいた。

そして夫の飲んだ暮れ人生の始まりでもあった。

酒飲み  

その1週間後に、義父が脳溢血で倒れ植物人間となり、半年後次男が生まれその2週間後に無くなった。

私の人生の中で、広島での2年間ほどつらい事はなかった。

この時の事を書けば思い出して、また恨み節を書き残してしまうからチャック!

ただ、娘と嫁には飲んだ暮れ亭主との不仲の歴史を語る上で、この時の事は知ってて欲しいので話したが、2人とも涙をながしていた。

この時から、私の心臓には毛が生え始め、その毛がやがて鋼鉄へと進化していった  

こんな我が家の一大事の時も、呑んだ暮れ亭主は毎晩のように飲歩き、慣れない営業にどんどん我がままで、気むづかしくなっていった

16.gif 

こんな一人ぽっちの時に、これまでの人生の基本となる「努力」を教えてくれた人に偶然あった。

ちょうどこの時、会社にいた頃可愛がってくれた人の息子さんが広島大学の大学院に入学された。私と同じ会社でアルバイトをされていて、顔見知りだったので連絡が取れた。

私はこの人から、どれほど努力してここまできたかを3時間にわたって話を聴いた。父親がいなかっただけに、大変だったようだった。

以前お母さんに聴いた話によると、この人は大学教授になられたとか。

私はこの日から「、努力の人」となった。

昭和52年宝塚に転勤が決まり、生まれたばかりの長女3ヵ月を抱き、2歳の次男、4歳の長男を連れ引っ越した。

トラック 

プロフィール

ぱわふるマミー

Author:ぱわふるマミー
みんなに笑顔と元気を振りまき、不幸も幸福に変えてしまうパワーが自慢です。

仕事の古布を使った手芸や、これまで起こった(珍)事件など、忘れっぽい自分のための備忘録として色々と綴っていきます。

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